福井県今立郡池田町水海・鵜甘神社  水海の田楽能舞
2014年2月15日(土)。福井県今立郡池田町水海52-24の、鵜甘神社で田楽能舞が行われました。

この田楽能舞は、建長二年(1250年)鎌倉幕府の執権北条時頼が、諸国行脚のため池田を訪れたところが、雪のため立ち往生してしまい、やむなく一冬をこの地で過ごすことになってしまいました。村人は時頼を慰めるために、田楽を舞って歓待しました。感激した時頼は、これに報いるため能舞を村人に教え、田楽と能が合わさった田楽能舞が、この地に受け継がれることになったと言われています。

奉納に先立ち、2月3日に舞人、囃し方、神事の役等が割振られ、以後10日間は厳しい練習が重ねられます。特に重要な「祝詞」、「翁」、「高砂」を舞う3人は、13日から「別火」の生活に入ります。当日はこの3名は正午から水海川で身を浄め、午後1時から拝殿で田楽能舞を奉納します。

田楽の「烏とび」から始まり、「あまんじゃごこ」、「祝詞(のっと)」、「阿満(あま)」と続き、能楽の「式三番」、「高砂」、「田村」、「呉服(くれは)」、「羅生門」が奉納されます。
昭和51年5月に、古い形が今も生きた形で継承されている。ということで、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
現在は、保存会のもと。保存・継承活動が行われています。

「おまつり見てある記」もご覧下さい→水海の田楽能舞
田楽能舞 その1 田楽能舞 その2 田楽能舞 その3
その1ー烏とび、あまじゃんごこ、祝詞(のっと)、阿満(あま)
その2ー式三番(千歳、翁、三番叟)、高砂
その3ー田村、呉服(くれは)、羅生門
【田楽】
「烏とび」−日本の国造りを示し、舞台の区画を定める舞です。黒い上衣に黒の頬被り。紫の袴で中啓を左右に振りあげ、中腰で片足ずつ跳びながら、舞台を一周します。

「あまじゃんごこ」−『あま田楽』が訛ったものといわれています。国中の荒ぶる神々を鎮め、舞台を含むすべての世界を清める舞です。三人が一列に並び、それぞれが赤・白・黒色のシャグマを付け、びんざさらを鳴らしながら、中腰で舞台を三周し、最後に反対方向に一周します。

「祝詞(のっと)」−鵜甘神社の神主がつとめる習わしになっています。田楽能舞を奉納する意義を語り、五穀豊穣、息災延命等を祈願する舞いです。 チリ(竹の先に奉書紙を付けた幣)と中啓を持ち、翁面を付けて舞います。

「阿満(あま)」−田作りを語り、悪魔払いをして、豊作を祈る舞です。黒い面を付けて、前半はチリと中啓を持ち、田打ちから刈り入れまでを語り、後半は幣を鈴に持ち替え、豊作を祈って舞います。

【能楽】
「式三番」−千歳(せんざい)、翁、三番叟(さんばそう)の三番が舞われ、天下泰平等を祈祷し、長久円満を祝福します。

「高砂」−相生の松にて、夫婦の和合と長寿を祝福し、常磐の松にて国の平安の永遠を寿ぎます。
後半の友成が住吉へ船を乗り出す場面から演じられます。この時、有名な「高砂や、この浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出汐の、・・・・」が謡われます。友成等が住吉に到着すると、住吉明神が現れ、悪魔を祓い、長寿を寿ぎ、平和な世を祝福するのでした。面を付け、扇を持って舞います。

「田村」−この舞も、「田村」の後半が演じられます。清水寺の縁起を中心に、観音の仏力をたたえ、田村麻呂の蝦夷征伐の武勇を表します。面を付け、扇を持って舞います。

「呉服(くれは)」−呉織、漢織の二人の織女が、廷臣の下向の道に機物を立てて、帝に献上し祝います。後半の祝賀の舞の部分が舞われます。夜更けに呉服の霊が現れ、君の御世を寿ぎ、朝廷へ献上する綾錦を織って、祝賀の舞を舞います。天冠を付け、扇を持って舞います。

「羅生門」−素朴な武人気質を取り上げ、鬼退治の武勇を描く後半が演じられます。渡部綱が羅生門の鬼退治に出かけ、格闘の末、鬼の腕を切り落とすという武勇を描いたものです。
渡部綱は始め扇を持って舞いますが、白いシャグマをかぶった鬼が現れると、剱を抜き格闘します。
 
参考資料 能楽の里
「水海の田楽能舞」特集号
「ふくい無形民俗文化財」第27号
「ふくい無形民俗文化財」創刊号
「福井県無形民俗文化財30周年記念誌」